ブザンソンへの道
指揮者 山 田 和 樹 (しらぎく幼稚園・木下音感楽院卒業)
■プロフィール
1979年神奈川生まれ。幼少の頃より、木下式音感教育法を受ける。2001年東京藝術大学指揮科卒業。安宅賞受賞。指揮法を小林研一郎・松尾葉子の両氏に師事。2009年第51回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。併せて聴衆 賞も獲得。ただちにスイス、モントルー・ヴェヴェイ音楽祭にてBBC交響楽団を指揮してヨーロッパデビュー。2011年5月ロンドンデビューが決定。その ほか、ドレスデンフィルなど6カ国9つのオーケストラから招聘予定。現在、NHK交響楽団副指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢ミュージック・パート ナー、横浜シンフォニエッタ音楽監督、東京混声合唱団レジデンシャル・コンダクター。ローム・ミュージック・ファンデーション在外音楽研究生としてベルリ ンに在住。 第21回出光音楽賞受賞。2012/13シーズンより、スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者に就任予定。

 僕が地元秦野市の幼稚園に入園目前のある日、父親に突然の転勤命令が。急遽、愛知県尾張旭市に転居することになり、あわただしく幼稚園探しをしたところ、木下式音感教育法を採用している「しらぎく幼稚園」に入園できる運びとなった。もし、この時、父親のみが単身赴任していたならば、僕は音楽家・指揮者という道を歩みはしなかっただろう。 人生は、数奇な運命の糸の交錯。いくつもの偶然が重なり、必然になっていく不思議。歌うことが好きだった。ピアノを弾くのも好きだったが、練習は嫌いだった。鑑賞は苦手、聴くよりも自分が演奏する方が楽しかった。
 僕はいわゆる「天才」ではない。一人っ子で両親の愛情を一身に受けたこと、木下式音感教育法を受けたこと、この二点が僕の幼少期にとって大切なことだった。
 小学3年生に上がる時、また秦野市へ転居、週1回土曜日に木下音感楽院へ通うことになる。この時の木下達也先生との出会いが、本当の意味での「音楽との出合い」になった。子供だから、といった妥協の一切ないレッスンの時間は、恐怖にさえ思えた。とにかく木下先生は厳しかった、怖かった。子供にはその恐怖の理由が分からない。でも、音楽を離れた時の木下先生はとても優しかった。ここで生活のメリハリや集中することを学んだのだ、と総括できるのは最近のこと。
 木下音感楽院では、中学生になると「名誉団員」といって、謝礼なしで自由に音楽を勉強できる、という前代未聞のシステムがある。歌も、ピアノも、ソルフェージュもさらに深く勉強できた。ちょうど、その頃、オペラ公演もあり、踊りや演技の勉強もできたし、小さな子の面倒を見ることも覚えた。結局のところ、楽院では「音楽」と同時に「社会性」も学んだのだと思う。こんな当たり前のことが、楽院のほかには機会がなかったのだ。
 男の子の宿命、声変わりの時期を迎え、歌では戦力にならないところに木下先生は「指揮」の機会を与えて下さった。今でこそ、東京合同音楽祭のオープニングを生徒が指揮するのは、当たり前だが、その最初の例は僕だった。晴れ舞台にと、先生は赤い蝶ネクタイをプレゼントしてくださった。今でも、大切に持っている。
 神奈川県県立希望ヶ丘高校に進学。吹奏楽部で打楽器を担当する傍ら、まもなく学生指揮者になり、お小遣いは全てCDに楽譜に消えていくようになった。勉強はほどほどに、とにかく音楽に没頭する日々。それでも音楽家になろうとは思っていなかった。なりたいけれど、自分の才能ではとても無理。そんなに甘い世界ではない・・・。
 そして、人生を変える日が訪れる。木下先生が東京合同音楽祭の最後のオーケストラの指揮を僕に任せてくれた。それまで身近には触れたことのない弦楽器の音色、プロフェッショナルの演奏者の反応の良さ、何か見えないオーラに自分が包まれたような、そんな全身総毛立つ感動の時間だった。それから数年後にローマヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂でも全く同じ感覚を経験し、この2度の感動体験が今の僕の芯を形成している。
 木下先生より、受験に必要な準備、先生の紹介をしていただき、1年間の準備期間は、瞬く間に過ぎていった。東京藝術大学指揮科の入学定員はたったの2名。狭き門ではあったが、その年の合格者は何と定員倍の4名。誠に幸運な年に入学をすることができた。
 藝大時代、僕はなぜか、「これではいけない」と常に怒っていたような気がする。それが前向きに働き、自分で藝大有志オーケストラ「横浜シンフォニエッタ」を立ち上げる原動力となった。
 この世界は、厳しい。藝大を卒業と同時に誰もが「プロ」になれる訳ではない。道なき道はここから始まるのだ。僕にも未来ははっきりとは見えていなかった。とりあえず、目の前の仕事を一つひとつ成功させていくことに全力を注ぐしかなかった。そうして、徐々に「プロ」の仕事が増えていくと同時に、僕の心の中に「漠然とした不安」を感じるようになってきた。このままでいいのだろうか。今しかステップアップできないのではないか。様々な想いの中で、ヨーロッパに渡る決意をした。遊学を始めてほどなく、ブザンソンコンクールを受けることになる。
 ブザンソンはフランス東部の歴史ある美しい小さな街。コンクールで有名な街ではあるが、本当にこじんまりしていて、音楽祭はまさに街をあげてのイベントとなる。コンクールは1週間かけて行なわれ、日ごとに20名から、10名、6名、3名と絞り込まれていく。他の出場者の様子を見ることは禁じられているため、皆の中で自分がどの位置にいるのかを推し量ることさえ難しい。孤独な戦い、「自分との闘い」と言えるだろう。真に求められたのは、音楽的能力を越えた「精神の強さ」、つまり、人間力そのものだったと思う。
 三次審査を無事パスし、ファイナリストの3人に選ばれることができた。この時点ではもはや他者との競争という感覚はなくなっていて、いかに自分が表現できるか、演奏を楽しめるか、という心境になっていた。
 ファイナリストの3人には、本選の演奏会のためのリハーサルが、一人1時間45分割り当てられる。現代作品の初演も含み、通すだけでも50分かかる曲目を105分で仕上げなければならないのだからたいへんなことではある。
 心を開いてくれたオーケストラとの本番は、一瞬一瞬に感動が走っていた。順位はどうでも良い。今世界で一番幸せな指揮者はこの僕なのだ。その1週間、自分でも驚くような成長があった。全然喋れなかった英語やフランス語が、必要に迫られることで受身ではなくなっていき、コンプレックスがとれていったし、音楽のスケールが広がり、指揮の伝達力もぐんぐんと増していったように思う。極度の緊張とプレッシャーから、全く眠れない日々だったが、魔法にかかったような一週間だった。
 「第51回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝!」
審査委員長のビエロフラーヴェク先生が抱きしめて下さった。翌日にはスイスに移動し、優勝記念の演奏会があり、ヨーロッパデビューである。日本からのお祝の数々にすぐに対応できないのが心苦しかった。
 今、僕の胸に様々な想いが去来している。正直なところ、喜びより、プレッシャーのほうが強いだろう。これから10カ国20余りのオーケストラに客演していく。また、ベルリンでのデビュー、ロンドンでのデビュー、パリ管弦楽団へのデビューが矢継ぎ早に決まった。夢に描いていたものが、突如、目の前に現れた今、少々の戸惑いを隠せないでいる。自分に今できるのは、「コンクール優勝」に慢心することなく、これを一つの新しいスタートとして捉え着実に一歩一歩あゆもうとすることだ。
 自分がもし、「しらぎく幼稚園」に入らず、木下式音感教育法に出合っていなかったら今日の僕はいない。木下達也先生、天国にいらっしゃるしらぎく幼稚園前理事長・宮原定雄先生、そして、お世話になった全ての方々へ厚く御礼申し上げます。
(第32回東京合同音楽祭プログラムより)

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進化し続ける木下式
指揮者 山 田 和 樹 (しらぎく幼稚園・木下音感楽院卒業)
■プロフィール
1979年神奈川生まれ。幼少の頃より、木下式音感教育法を受ける。2001年東京藝術大学指揮科卒業。安宅賞受賞。指揮法を小林研一郎・松尾葉子の両氏に師事。2009年第51回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝。併せて聴衆 賞も獲得。ただちにスイス、モントルー・ヴェヴェイ音楽祭にてBBC交響楽団を指揮してヨーロッパデビュー。2011年5月ロンドンデビューが決定。その ほか、ドレスデンフィルなど6カ国9つのオーケストラから招聘予定。現在、NHK交響楽団副指揮者、オーケストラ・アンサンブル金沢ミュージック・パート ナー、横浜シンフォニエッタ音楽監督、東京混声合唱団レジデンシャル・コンダクター。ローム・ミュージック・ファンデーション在外音楽研究生としてベルリ ンに在住。 第21回出光音楽賞受賞。2012/13シーズンより、スイス・ロマンド管弦楽団首席客演指揮者に就任予定。

 自分がもし木下先生に出会っていなかったら、木下式音感教育法を受けていなかったら、そしてこの東京合同音楽祭がなかったら、決して指揮者にはなっていなかっただろう。
 東京合同音楽祭では、しらぎく幼稚園の年中で初めて大舞台と生のオーケストラに触れ、年長で初めて独唱し、中学1年生で初めて合唱を指揮し、高校2年生で初めてオーケストラを指揮させて頂いた。僕にとっては全ての「初めて」の経験が、この東京合同音楽祭に詰まっているのだ。
 よく「幼稚園児に大舞台やプロフェッショナルのオーケストラ伴奏は不必要では?」という質問があるそうだが、これは是非お子様自身に聞いてみて頂きたい。あの舞台裏の独特の空気の匂いと緊張感、生のオーケストラとノーリハーサルで共演する高揚感、これらは僕自身が幼稚園時代の記憶として鮮明に覚えていることなのだ。それは子供だからといって妥協するのでなく、一流の「本物」を提供してこその賜物である。
 このように、木下式音感教育法は「教え込む」のではなく「体感させる」ことに重点を置いていると言えるだろう。無理せず自然に音感が身についている、という世界に類を見ない魔法の教育法だ。何よりも音感かるたやカラー五線紙のように音を「色」と結び付けたことが素晴らしいし、その配色が実に的確であったことが、プロの音楽家になった今とても役に立っている。実はこの教育法、今なお進化を続けているのには驚かされる。子供が変われば大人も創意工夫し変わらなければ。この進化し続けることが木下式の「魔法」の一片なのかも知れない。
 木下先生を一言で表現するには「音楽家」でも「教育者」でも足りない。そう「芸術家」がピタリとくる。芸術の「芸」は古くは「藝」であり、草木の種をまいて大切に守り育てる、という意味があるそうだ。木下先生の盆栽の世界にも通じてくるし、教育にも音楽にも全てに当てはまる。木下先生は何事にも決して妥協をしない。それが子供には厳しさや恐れとなって映ったりするのだが、真剣なものには本気で対峙しなくてはならない、という基本的な所から教えて頂いたように思う。最近ではそんな畏怖の念を抱かせる大人が実に少なくなった。僕は親父に殴られたことがない。その意味では木下先生は父親代わりのような存在でもある。殴られて「痛い」と思うのは一瞬、すぐに「悔しい」「頑張らなくては」と思ったものだ。相手が子供であれ大人であれ『伝える』ことは本当に難しい。でも逃げてはいけないのだ。藝術を人間が生きる発露だとすれば、藝術に妥協しない木下先生の教えは則ち「生きることに妥協するな」というメッセージになる。
 このように木下式音感教育法は木下達也先生の強い愛情とカリスマ性によって成立している部分が大きいのだが、東京合同音楽祭が30回を迎えた今、さらにグローバルな活動が展開されることを祈ってやまない。そしてこの音楽祭を経験した子供の中から、音楽家でなくてもいい、未来の日本や世界を担う人材が生まれることを心より願っている。(第30回記念東京合同音楽祭プログラムより)
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舞台に上がる瞬間が待ち遠しい
中学3年 生 熊   茜(千里丘学園幼稚園卒園)
■プロフィール
2002年 第56回全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学校の部大阪大会入選
2003年 第57回全日本学生音楽コンクールピアノ部門小学校の部大阪大会入選
2005年 ピティナピアノコンペティション全国決勝大会 F級 ベスト10賞
2006年 ピティナピアノコンペティション全国決勝大会 Jr.G級 金賞 
      あわせて讀賣新聞社賞・ソナーレ賞受賞
2007年 第61回全日本学生音楽コンクールピアノ部門中学校の部大阪大会1位
      全国大会1位

 私が東京合同音楽祭に参加させていただいたのは9年前のことでした。「時に厳しかった」という練習も私の記憶の中につらかったという思い出は一切ありません。木下先生から独唱者に選ばれた時も「一人で歌うんだ」と漠然と思い、音楽祭がどういうものかはわかっていませんでした。母も同じだったようで他のお母様から事の重大さを聞き、ただただ無事に歌えるか不安だったようです。「とにかく、先生のおっしゃることをよく聞きなさい」と言われたことを覚えています。幼稚園の先生方から「木下先生はダラダラしていると厳しい」と聞いていましたが、実際に指導を受けると優しい先生でした。
 幼い頃の記憶に今もはっきり残っているのは、独唱を控えた私に担任だった井崎先生がくださったアメ玉です。このアメ玉には喉のためというだけではなく、上手に歌えるようにとの先生の祈りがこめられていたと思います。舞台の底から湧き出てくる伴奏と客席いっぱいのお客様にとても気持ちが良かったことを覚えています。無事に歌い終えると会場の皆様が大きな拍手と、舞台袖には先生方が笑顔で待っていてくださいました。母も無事に終わり「良かった、良かった」と喜んでくれました。
 私は中学生になった今でもピアノの勉強を続けていますが、舞台でピアノを弾くことが好きです。本番の前は緊張もしますがワクワクします。上手く弾けなかったり失敗して落ち込むこともありますが、次に舞台に上がる瞬間が待ち遠しくなります。これは、幼稚園の頃の音楽祭の経験のおかげだと思います。
 今年10月、木下先生が千里丘学園に来られると聞き、母と幼稚園を訪ねました。木下先生に「何か弾いてみて」と言われ幼稚園のホールで演奏しました。普段、演奏会で弾く時は緊張しませんが、実は狭いホールほど緊張します。特に木下先生を背後に弾くのはかなり緊張しましたが、「東京の講習会で弾かせてあげよう」と言っていただき、感謝の気持ちでいっぱいでした。
 その後、全日本学生音楽コンクールの大阪大会に出場しました。このコンクールは予選に必ずバッハが課題曲として出されとても勉強になるため、毎年挑戦しています。しかし、これまで予選落ちが3年続き、今年は受験生ということもあって気負わずに参加したら、大阪大会、そして全国大会でも1位をいただき本当に驚きました。今でも信じられません。
 12月23日、お世話になった千里丘学園をはじめ幼稚園の先生方の前での演奏は、決して満足のいく出来ではありませんでしたが、良いピアノで弾かせていただいたこと、皆さんが9年経っても私の事を覚えていてくださったことがとても嬉しかったです。 木下先生は「次は大ホールでオーケストラとの共演の場を与える」と言われ、まだコンチェルトを演奏するには勉強不足な自分に、そう言っていただけただけで嬉しく、いつかそんな日が本当に来ればいいな・・・。また頑張ろうと思っています。どんな形でも生涯ピアノの勉強を続けていくことが私の夢です。
(第30回記念東京合同音楽祭プログラムより)
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努力を教えてくれた音感楽院
ミュージカル女優 折 井 理 子(木下音感楽院卒業)
■プロフィール
雙葉学園高等学校卒業後、桐朋学園大学音楽学部声楽科を経て、東宝ミュージカルアカデミー第1期生に合格。
2007年6月〜10月 ミュージカル「レ・ミゼラブル」にて帝国劇場、博多座で初舞台を踏む。
2008年3月〜5月 宮本亜門演出「トゥーランドット」に出演。
個人ブログ「折井理子のKEEP ON SINGIN’」はgooの一押しブログにも選ばれるなど好評で、毎日更新中。http://blog.goo.ne.j p/riko-007

 初めまして。折井理子と申します。2007年6月から10月まで東宝ミュージカル「レ・ミゼラブル」にマテロット役として帝国劇場、博多座に出演しました。2008年3月から5月まで宮本亜門さん演出の舞台「トゥーランドット」に出演致します。
 私の音楽の勉強は木下音感楽院で始まりました。2歳半から小学校6年まで楽院で聴音やソルフェージュのレッスンを受けたお陰で絶対音感を身につけることができました。またピアノや合唱の練習を通して音楽の楽しさも知りました。
 楽院に通っていた当時から歌やダンスが大好きだった私はミュージカルの舞台に立つことを夢見て桐朋音楽大学の声楽科に入学しオペラなども勉強しました。その後、東宝ミュージカルアカデミーというスクールを経て、今年、念願叶って「レ・ミゼラブル」で初舞台を踏む事ができたという訳です。
 音大に入るにもアカデミーに入るにも音感やリズム感は絶対必要だと思います。絶対音感があるので、楽譜を読んだだけで、曲が頭に流れるのは、私にとって大変有利なことです。オーディションやレッスンなどで、違うパートを歌うことになっても、楽譜を見ればすぐに歌えるからです。また、楽譜がなくても曲を聴けば、ある程度の伴奏はすぐできます。まさに「音を楽しむ」を実践できるのです。木下音感楽院で勉強したことがいつも役に立っています。
 木下音感楽院といって思い出すのは、年に何度かある発表会。独唱や独奏の時間が近づくと緊張して、始まる前は
「もういやだ!」と思ったものです。しかし、いざ舞台に立ってみるとスッと背筋が伸びる感じがして、発表会の後はなんだか成長できた気がしました。
 今考えると、私にとっての本当の初舞台は、木下音感楽院の発表会だったのかもしれません。幼稚園生の頃から、スポットライトを浴びて歌えるなんて、とっても贅沢な子供時代だったと、誇らしく思います。でも、そんな良い思いをするには、それなりの覚悟が必要です。なぜなら楽院の厳しさは生半可ではないからです。先生方は、愛情を持って教えて下さるのですが、なにせ厳しい!!?少なくとも週1回は、必ず誰か泣いていたように思います(笑)。
 特に怖かったのは、合唱の時間。達也先生の熱い指揮の下、一生懸命歌うのですが、常に先生の目が光っています。口が開いてない子や、音がちょっと違っている子がいたりすると、1人ずつその部分の歌をチェックされるのです。その順番が近づいてくる緊張感といったらありません。今でも思い出せます(笑)。
 そんな怖い思いをした私が、なぜ今この文を書いているかというと、先生方の気持ちを知っているからです。「この子の歌を上手くしたい。教育したい」という、本気で生徒を思う優しさがあるからこそ、真剣に叱ってくださったのです。子供心にも、そのことはちゃんと分かっていました。今、こんなに、熱い思いを持って教育してくださる音楽教室が、他にあるでしょうか。
 プロの舞台に立ってみて思ったのは、楽院に通っていて本当によかったということです。楽譜を読むのも一苦労の人もいる中で、私には音楽に込められた心を汲み取り、歌詞の深いメッセージをいかに伝えるか、考える時間の余裕ができるのです。それは、楽院に通って一生懸命練習した幼い頃があるからだと思います。木下音感楽院は、その基盤を作ってくれました。「努力できることが才能である」私が一番好きな言葉です。
(第30回記念東京合同音楽祭プログラムより)
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ステージに立つ責任感と拍手をもらう喜び
ピアニスト 山 本 佳 澄(第三あおい幼稚園卒園)
■プロフィール
東京藝術大学附属高校、東京藝術大学を経て、同大学院に進む。
2004年1月に第16回大曲新人音楽祭でグランプリ大賞を受賞。
2005年よりハンガリー国立リスト音楽院に留学。
2006年4月に第25回ヌエバ・アクロポリス国際ピアノコンクール(マドリッド)にて第三位を受賞。射水市より芸術文化団体派遣補助金を受ける。
これまでに国内各地やブダペストで、ソロリサイタルや室内楽のコンサートを行い、数多くのオーケストラと共演。現在、ハンガリーより完全帰国し、同大学院に在学中。
2007年よりNHK交響楽団ヴァイオリン奏者の降旗貴雄氏とデュオ「Contrasts」を結成。公式ブログ:http://yaplog.jp/kasumissimo/

 1988年2月21日、新宿文化センター。私は第10回目の東京合同音楽祭に出演させていただきました。音楽祭でのステージは、今から思えば私の音楽人生で一番最初の大ステージでした。どこか不思議な気持ちがしながら、広い広い舞台の真ん中にお友達と一緒に立って、ただただ顔中を口にして一生懸命に歌ったのをよく覚えています。今もあの頃のような天真爛漫さで舞台に立てるといいのですが!
 大人になった今、幼稚園の子供たちがあのような大舞台で立派に演奏すること、そしてそのような機会があること、これは願ってもない幸運だと思うのです。当時の私にとっては初めての大舞台と観客席、初めての独唱、初めての大合唱、初めての東京!?何もかもが未知の世界でした。そして、小さいながらに漠然と経験したステージに立つ者の立場や責任感のようなもの、そして拍手をもらう喜びがありました。
 あれから20年。あの日の私は今日も変わらずに、音楽と向き合い、ピアノを弾きステージに立っています。そして私の音感の潜在的な部分には、第三あおい幼稚園での音感教育があります。音感かるたで歌ったり、音当てをしたりしていた、あの時間が私にもたらしてくれた特別な音感。私にとって、在って当たり前であり、無くてはならないものです。木下式音感教育法・東京合同音楽祭。これは今日の私の原点です。
(第30回記念東京合同音楽祭プログラムより)
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