僕が地元秦野市の幼稚園に入園目前のある日、父親に突然の転勤命令が。急遽、愛知県尾張旭市に転居することになり、あわただしく幼稚園探しをしたところ、木下式音感教育法を採用している「しらぎく幼稚園」に入園できる運びとなった。もし、この時、父親のみが単身赴任していたならば、僕は音楽家・指揮者という道を歩みはしなかっただろう。 人生は、数奇な運命の糸の交錯。いくつもの偶然が重なり、必然になっていく不思議。歌うことが好きだった。ピアノを弾くのも好きだったが、練習は嫌いだった。鑑賞は苦手、聴くよりも自分が演奏する方が楽しかった。
僕はいわゆる「天才」ではない。一人っ子で両親の愛情を一身に受けたこと、木下式音感教育法を受けたこと、この二点が僕の幼少期にとって大切なことだった。
小学3年生に上がる時、また秦野市へ転居、週1回土曜日に木下音感楽院へ通うことになる。この時の木下達也先生との出会いが、本当の意味での「音楽との出合い」になった。子供だから、といった妥協の一切ないレッスンの時間は、恐怖にさえ思えた。とにかく木下先生は厳しかった、怖かった。子供にはその恐怖の理由が分からない。でも、音楽を離れた時の木下先生はとても優しかった。ここで生活のメリハリや集中することを学んだのだ、と総括できるのは最近のこと。 |
木下音感楽院では、中学生になると「名誉団員」といって、謝礼なしで自由に音楽を勉強できる、という前代未聞のシステムがある。歌も、ピアノも、ソルフェージュもさらに深く勉強できた。ちょうど、その頃、オペラ公演もあり、踊りや演技の勉強もできたし、小さな子の面倒を見ることも覚えた。結局のところ、楽院では「音楽」と同時に「社会性」も学んだのだと思う。こんな当たり前のことが、楽院のほかには機会がなかったのだ。
男の子の宿命、声変わりの時期を迎え、歌では戦力にならないところに木下先生は「指揮」の機会を与えて下さった。今でこそ、東京合同音楽祭のオープニングを生徒が指揮するのは、当たり前だが、その最初の例は僕だった。晴れ舞台にと、先生は赤い蝶ネクタイをプレゼントしてくださった。今でも、大切に持っている。 |
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神奈川県県立希望ヶ丘高校に進学。吹奏楽部で打楽器を担当する傍ら、まもなく学生指揮者になり、お小遣いは全てCDに楽譜に消えていくようになった。勉強はほどほどに、とにかく音楽に没頭する日々。それでも音楽家になろうとは思っていなかった。なりたいけれど、自分の才能ではとても無理。そんなに甘い世界ではない・・・。
そして、人生を変える日が訪れる。木下先生が東京合同音楽祭の最後のオーケストラの指揮を僕に任せてくれた。それまで身近には触れたことのない弦楽器の音色、プロフェッショナルの演奏者の反応の良さ、何か見えないオーラに自分が包まれたような、そんな全身総毛立つ感動の時間だった。それから数年後にローマヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂でも全く同じ感覚を経験し、この2度の感動体験が今の僕の芯を形成している。
木下先生より、受験に必要な準備、先生の紹介をしていただき、1年間の準備期間は、瞬く間に過ぎていった。東京藝術大学指揮科の入学定員はたったの2名。狭き門ではあったが、その年の合格者は何と定員倍の4名。誠に幸運な年に入学をすることができた。
藝大時代、僕はなぜか、「これではいけない」と常に怒っていたような気がする。それが前向きに働き、自分で藝大有志オーケストラ「横浜シンフォニエッタ」を立ち上げる原動力となった。
この世界は、厳しい。藝大を卒業と同時に誰もが「プロ」になれる訳ではない。道なき道はここから始まるのだ。僕にも未来ははっきりとは見えていなかった。とりあえず、目の前の仕事を一つひとつ成功させていくことに全力を注ぐしかなかった。そうして、徐々に「プロ」の仕事が増えていくと同時に、僕の心の中に「漠然とした不安」を感じるようになってきた。このままでいいのだろうか。今しかステップアップできないのではないか。様々な想いの中で、ヨーロッパに渡る決意をした。遊学を始めてほどなく、ブザンソンコンクールを受けることになる。
ブザンソンはフランス東部の歴史ある美しい小さな街。コンクールで有名な街ではあるが、本当にこじんまりしていて、音楽祭はまさに街をあげてのイベントとなる。コンクールは1週間かけて行なわれ、日ごとに20名から、10名、6名、3名と絞り込まれていく。他の出場者の様子を見ることは禁じられているため、皆の中で自分がどの位置にいるのかを推し量ることさえ難しい。孤独な戦い、「自分との闘い」と言えるだろう。真に求められたのは、音楽的能力を越えた「精神の強さ」、つまり、人間力そのものだったと思う。
三次審査を無事パスし、ファイナリストの3人に選ばれることができた。この時点ではもはや他者との競争という感覚はなくなっていて、いかに自分が表現できるか、演奏を楽しめるか、という心境になっていた。
ファイナリストの3人には、本選の演奏会のためのリハーサルが、一人1時間45分割り当てられる。現代作品の初演も含み、通すだけでも50分かかる曲目を105分で仕上げなければならないのだからたいへんなことではある。
心を開いてくれたオーケストラとの本番は、一瞬一瞬に感動が走っていた。順位はどうでも良い。今世界で一番幸せな指揮者はこの僕なのだ。その1週間、自分でも驚くような成長があった。全然喋れなかった英語やフランス語が、必要に迫られることで受身ではなくなっていき、コンプレックスがとれていったし、音楽のスケールが広がり、指揮の伝達力もぐんぐんと増していったように思う。極度の緊張とプレッシャーから、全く眠れない日々だったが、魔法にかかったような一週間だった。
「第51回ブザンソン国際指揮者コンクール優勝!」
審査委員長のビエロフラーヴェク先生が抱きしめて下さった。翌日にはスイスに移動し、優勝記念の演奏会があり、ヨーロッパデビューである。日本からのお祝の数々にすぐに対応できないのが心苦しかった。 |
今、僕の胸に様々な想いが去来している。正直なところ、喜びより、プレッシャーのほうが強いだろう。これから10カ国20余りのオーケストラに客演していく。また、ベルリンでのデビュー、ロンドンでのデビュー、パリ管弦楽団へのデビューが矢継ぎ早に決まった。夢に描いていたものが、突如、目の前に現れた今、少々の戸惑いを隠せないでいる。自分に今できるのは、「コンクール優勝」に慢心することなく、これを一つの新しいスタートとして捉え着実に一歩一歩あゆもうとすることだ。
自分がもし、「しらぎく幼稚園」に入らず、木下式音感教育法に出合っていなかったら今日の僕はいない。木下達也先生、天国にいらっしゃるしらぎく幼稚園前理事長・宮原定雄先生、そして、お世話になった全ての方々へ厚く御礼申し上げます。
(第32回東京合同音楽祭プログラムより)
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